普段、音楽を聴いているか、洋画ばかり観ていることが多く、さして読書をしていないかもしれませんが、Amazonプライムになったことにより、kindleでフィッツジェラルドのグレートギャッツビー読みだしています。 彼の話は、随所に見られる情景の描写に話の展開よりも魅力を感じます。 三章くらいまで読み進めたのですが、気になった一文があったので、引用します。 館での盛大なパーティーのシーンです。 『海峡の水面には銀波が大きな三角形に浮かび上がり、芝生の庭でかき鳴らされているバンジョーの音に合わせてゆらゆら小刻みに揺れている』 この一文に目が留まりました。この物語自体は現実の都会生活をもとに描いていますので、誇張的ではありません。しかし、この一文には情景描写が過大すぎる感じがします。 科学的に考えて、バンジョーの音色による空気の振動が、(さほど大きくはならないであろう楽器だと思うのですが)波の動きに関連するとは思いません。仮にこの描写が事実的であっても、揺れているのは、実際に音色に関連しているのではなく、関連しているように見えていると書き手が思っていると予想されます。 では、このような表現を用いた文章を仮に今の時代の文学賞に代表される選考委員が目にしたとき、それを次に通すでしょうか。きっとしないように思います。 逆説的に考えますと、落選される者の多くにこのような行き過ぎた表現があるかもしれません。 だから、表現を控えめにせよと言いたいのではなく、このような引っかかるところに何か面白いことがあるのです。 私達といいましょう、私達が実際に描いていきたいのは、文学の流れを継いだように見える商業に反映された新しき文学とよべるものなのでしょうか。それとも、過去の中にうずもれてきた純度の高い文章の復活・後継でしょうか。 選択は自由だと思いますが、一考いただけたらさいわいです。 以上です。また、気になったら更新します。
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過去の日記から、好きな小説の文章を引用します。
シランパアの聖貧です。 一部抜粋 『 しかし大自然は人間の泣き言に耳をかさず、その運行を続けて行く。一方では制御しようのない絶対的な大自然の運行と他方では人生劇の神髄である人間の思考とが、この暗い状態のなかで、相交錯し、それは恰も遠く隔てた森の奥の誰も近づくことさえできない片隅でも、それぞれの種に従って優しい草花が咲くのと同じである。分娩の時が近づくと、これらのあらゆる倦怠の、いいようもない重圧は、一時的にマイヤを押し付けるのを中止した。彼女は一種の理想的状態に達しているように思われた。エヴァ、マルケ、ベンヤミ、そして産婆など、他人はその欲するままにしていればいい。』 『 未来の運命は予測さえできず、より幸か、より不幸か、その行末に期待もなく、しかも長い幾世紀の中の僅か十年か五十年を生きのびようとしている、か弱き人類の現在の憂苦を、果てしない星空は見下ろしていた。そして蒼穹のもと、膨大な森林のなかに、幾百万の人間は、死に行く乞食と、目を光らせたヤマネコの側に、目覚めようとしているのである。森林の合間には灰色の村があり、或るものは自己の手中におちる農場によって繁栄することを夢み、ある者は父祖先代々のこの土地に最後のクリスマスを迎えていると自覚し、更にまた多くの窮迫者の荒屋では未来への希望もつながりも全く絶たれた人々が、枯れるように死んでいった。一つの空のもと、一様に調和した灰色に覆われた村も、こうしたいろいろの色合いの生命が動いているのである。調和の破れる変動の時代はまだ来なかった。しかし、頑強な大地と大空にはすでに、或は、目に見える、或はかくれた、自然の力が動き出していた。これは1867年のクリスマスの夜のことである。ずっと時代を経てから考えてみるとこの年のクリスマスも楽しいものであったと思われる。しかし、当時の人々は全く意気消沈してしまっていた。食事が済んでからマイヤは讃美歌を歌おうとしていた。しかしその声はあまりに低かったので、他の者はついて歌うこともできなかった。彼女は二唱句までで歌い止めた。』 「マノロは、カフェをでながら、この世のすべてが、よってたかって自分を亡きものにしようとしているのだと感じた。町の人々が、六人の男たちが、伯爵が、そして、自分の母さえが、十二歳の誕生日まえに、自分が死ぬことをのぞんでいるのだ。ただ牛の相手をするだけという希望は、いまや完全になくなった。牛を殺さなければならないのだ。かれらは、それを、はじめから知っていた。 マノロひとりだけが、かれらは、まさかすべてを、父とおなじようにやらせはしないだろうと、おろかにもねがっていたのだ。はじめてマノロは、ファンオリバルの息子として生まれなければよかったと思った。 またスペイン人として生まれなければよかったと思った。それよりも、いっそこの世に生まれなければよかったとさえ。」 |