≪こちらは、mixiにて投稿した16年12月の日記の転載になります。土浦の資料館に行き感じたことやその様子です。≫
今日は三連休の一日目ということもあり、父から聞いた土浦の予科練平和祈念館に行ってきました。そこで予想の外ではありましたが、戦時中に志願していった飛行機乗りたちの訓練学校の模様や入学試験の内容などを見て、その写真から当時の学生たちが自分らの20歳そこらの頃と変わらないことを強く感じさせられました。 館内では神風特攻隊の模様を映した短編のドキュメント映画も上映して観ましたが、日本の戦争映画をほとんど観ないがために、モールス信号が連続して送られる中、それが聞こえなくなった時が追突する時だということを、知り新しい発見を感じました。 今でいう自爆テロのようなものを日本の戦時作戦として、勧めていたことに怖ろしさを感じました。 潜水服に爆弾を巻きつけるなんて・・知りませんでした。 行きはバスで向かったのですが、帰りはちょうどよいタイミングがなく、駅まで50分くらい歩いていました。風が強い日でした。 単に戦争に興味があって行くという感じではなく、自分の場合、これから何を糧に生きようかと考えるために、既に自分よりも10年も若くして犠牲に向かっていった彼らの生きざまを学ぼうと思い行ったのでした。 そして、何が得られたかというと、彼らの家族への手紙や当時の国のムードに影響を受けはせず、感じたのは、彼らの気概としていた自己の内省でした。 つまり、5訓と言われた、 怠けはしなかったか、恥ずかしいことは言わなかったか、誠実であったか等・・ その日、一日の彼らの姿勢がつまり、目指すべき目標に向けて労を惜しまなかった生き様を発明したのではないかと感じました。 そう比較すると、最近はなるべく一日の最後まで懸命になろうと仕向けたりすることはありますが、それでも学生の頃のときと比べると修身よりも人間らしく怠けてきているなと思ったりします。 思えば幾星相・・と、彼らの遺書には幼いころから今までが地続きの現在として綴られていますが、はるかに彼らより生き永らえている今日、その幾星相といえるように自己の気概を保てるように生きてゆけたらと思います。 そういえば国語の試験の作文に、自己犠牲というテーマがありました。 それについて、私の考えは現代と照らして述べたりはしませんが、しかし作文とは各々に突きつけられるものだと感じました。 今日はそんな日でした。
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過去の日記から、好きな小説の文章を引用します。
シランパアの聖貧です。 一部抜粋 『 しかし大自然は人間の泣き言に耳をかさず、その運行を続けて行く。一方では制御しようのない絶対的な大自然の運行と他方では人生劇の神髄である人間の思考とが、この暗い状態のなかで、相交錯し、それは恰も遠く隔てた森の奥の誰も近づくことさえできない片隅でも、それぞれの種に従って優しい草花が咲くのと同じである。分娩の時が近づくと、これらのあらゆる倦怠の、いいようもない重圧は、一時的にマイヤを押し付けるのを中止した。彼女は一種の理想的状態に達しているように思われた。エヴァ、マルケ、ベンヤミ、そして産婆など、他人はその欲するままにしていればいい。』 『 未来の運命は予測さえできず、より幸か、より不幸か、その行末に期待もなく、しかも長い幾世紀の中の僅か十年か五十年を生きのびようとしている、か弱き人類の現在の憂苦を、果てしない星空は見下ろしていた。そして蒼穹のもと、膨大な森林のなかに、幾百万の人間は、死に行く乞食と、目を光らせたヤマネコの側に、目覚めようとしているのである。森林の合間には灰色の村があり、或るものは自己の手中におちる農場によって繁栄することを夢み、ある者は父祖先代々のこの土地に最後のクリスマスを迎えていると自覚し、更にまた多くの窮迫者の荒屋では未来への希望もつながりも全く絶たれた人々が、枯れるように死んでいった。一つの空のもと、一様に調和した灰色に覆われた村も、こうしたいろいろの色合いの生命が動いているのである。調和の破れる変動の時代はまだ来なかった。しかし、頑強な大地と大空にはすでに、或は、目に見える、或はかくれた、自然の力が動き出していた。これは1867年のクリスマスの夜のことである。ずっと時代を経てから考えてみるとこの年のクリスマスも楽しいものであったと思われる。しかし、当時の人々は全く意気消沈してしまっていた。食事が済んでからマイヤは讃美歌を歌おうとしていた。しかしその声はあまりに低かったので、他の者はついて歌うこともできなかった。彼女は二唱句までで歌い止めた。』 「マノロは、カフェをでながら、この世のすべてが、よってたかって自分を亡きものにしようとしているのだと感じた。町の人々が、六人の男たちが、伯爵が、そして、自分の母さえが、十二歳の誕生日まえに、自分が死ぬことをのぞんでいるのだ。ただ牛の相手をするだけという希望は、いまや完全になくなった。牛を殺さなければならないのだ。かれらは、それを、はじめから知っていた。 マノロひとりだけが、かれらは、まさかすべてを、父とおなじようにやらせはしないだろうと、おろかにもねがっていたのだ。はじめてマノロは、ファンオリバルの息子として生まれなければよかったと思った。 またスペイン人として生まれなければよかったと思った。それよりも、いっそこの世に生まれなければよかったとさえ。」 |