こんにちは。
今年の新作掌編「太陽が近かったなんて」が完成し、手元に届きました。巻末に思いを書いたように今回ので、私の創作活動は区切りをつけたこともあり、翌年までになにか文章を書く前に、私が文章を書いてきた理由を考えてみようと思いました。 掌編小説のコンテストというのはとても限られているために、何が私の書く動機や原動力となっているかと思うのです。 自分で文章を書く前に、誰かの文章を読んでいたというのはありました。その文章に感銘を受けて自分でも書いてみようと思ったのかもしれませんが、ただ、私が書き始めた時は、文学や哲学というのでなく、とても自由に書いていたがために、文学を書きたいと、そういうわけではなかったのです。 でも、今でも日本の純文学はいいなと思うことはあるのです。転じて、それは書店にある現在の文学作品というのは当時となぜこうも違うものだろうとも今でも思ったりするのです。 最近は文学フリマに参加される方も大分増えてきたので、そちらに任せてもいいと思ったりもするし、自分がイベントに参加してしまうと、他の方のを読みに行くことができないので、秋の文学フリマは見学だけにしようとか思ったりするのです。 大学生の頃、漫画家が著名人と話す絶望に効く薬という漫画が好きでよく読んでいました。人の行為の結果は人以外の生き物を汚すことが多いのですが、そういう悲観的な考え方の自分にとって、この漫画家さんが抱いていた絶望に対して、数々の対談者が話していく処方箋はなかなか面白いものだと思いました。なかには心の話もありました。クリエイトされたりご自身が活動家になられた方は自分が息苦しくて救われたいからなったという話もありました。 私もそういうところありました。だから、一つは自身が抱える苦しさや悩みというものを文章に変えて、向き合い吐き出していくというところはあると思います。 でも、別に自由に話を書いていたように、遊びとして気晴らしや気分転換として書いていたというのもあるのです。 本を作るきっかけになるのは知人が文学フリマを教えてくれたからでした。一度行ってみて、然程作品の自由度があるので、このくらいならとりあえず作ってみようかと思いました。 ですが、初めて作った本に、作家として注目されたいとか後世に自分の文章を形として残したいと思っていなかったといえばそれは嘘です。だからこそ、焦りがあり、最初に作った文章は編集がうまくいっていなく読み苦しいところが幾つかあるなと思います。正直に私が残したいと思ったのは更にその幾つか先の文章なので、その本は作れてよかったなとは今でも思います。 後に私の文章を認めて下さる読者や作家、音楽家もいらっしゃるようになり、私が敬意を抱いていた方に認めてもらえたのは光栄なことだと思いました。 凡そ私の好きな文学というものにはそこに思想があり、人生観が入っていると思います。 ほかに、情熱や叫びのようなものも入ったりします。 美術や芸術に通じるものも入ったりします。 つまり、好きなものや色々なものと接していく内に私はまた独自の文章を書いているのでしょう。 自分で自分の文章を読み直すと、その掌編小説ごとに色々な性格や特徴があって、自分の幅や広さを感じたりします。自分に限らず色々な方の文章を読むことでそれぞれの人に違った良さを見つけます。 文学が好きであると、昔の文学のような作品が少ないと言っておきながら、自分にそれを課さずに変化に委ねているのだから、自分自身も随分勝手だなと思います。 ただ、私の文章の型はさほどぶれることは考えにくく、生きていますから、色々と思うことありますから、楽しんだことをまた文章にしたり、苦しんでいたことを文章にしたり、刺激を受けたことを文章にしたり、印のような生き物を標本としているようなそんな感じな気がします。 今も若い人は彼ら特有の生きづらさを持ったりしています。そんな方になにか癒せるきっかけとなればと書いた話も最近はあります。あまり私と似たような経験や思いは感じてほしくないとかそんなところです。 通販ではあまり私のは出回っていませんが、本として形となったものを手に取ってくださるのはネットで文章を読んでくださることより私はとても嬉しかったりします。それはデザインやイメージ、協力して下さっている方のこと、それらがまとまっているのからかもしれませんし、単に費用をかけているためというのもあると思います。 ですので、文章を書くだけでなくそれを本としてご提示することまでが私が望んでいることではあるのです。例えばイベントで私の隣の参加者だけたくさんお客さんがいて、私のところ買う方は少ないとします。そういうとき、「君はなぜ誰も君の文章を読んだりしないのに本を作り続けるのかね?」と誰かが尋ねたとします。 前に言っていたのは、私がまず自分の本を楽しみにしている読者だからと覚えています。 もし、それの別にあるとしたら、ここまで活動を続けて思うことはこうです。 「起きている事を書いているのです、それが生きていることだからです」 「私しか書けないことがあるようです、確かにずっと日の光には浴びないかもしれませんが、それでも私しか書けないのなら、私が書きたいのなら、それは続ける必要性があるということではないでしょうか」 私は宣伝活動が恐ろしく下手なので、東京のイベントでしか直に見ることはできないのはとても申し訳なく思っています。 でも、文学フリマというのが書店よりも文学に熱意があるのは確かな気がします。これから考えたままでいえば、毎年春のイベントには参加していけたらなと今はそんなところで。 私は頑なに続けないといけないとかそこまでは考えていないのです。大事な時間を過ごして、書きたくなれば書けばいいというくらいです。 なので、もし私の文章のファンの方がもしいらっしゃるのであれば、次は大分先になりますから、5月の文学フリマ東京に遊びにきて、ひとまず最後となった「太陽が近かったなんて」を見てほしいものです。 以上です。 お読みいただき有難うございました。
0 コメント
はじめまして。
こちらのホームページは掌編小説と詩を書いてきたものを載せたりしています。 今回、広告掲載のお礼も兼ねて昔の詩から「影色の日々」という詩篇を載せました。 また、掌編小説と詩をわかりやすく色分けしました。 これまで計5冊の掌編小説や詩集を自費出版で作ってきましたが、お陰様で初期の作品はもう残り 部数が僅かとなりました。そして、6冊目は部数少ないですが、3月中には完成予定でございます。 完成次第、ネットショップには載せますが、もしご注文の場合は、私個人でゆうメールやゆうパックなどでご用意しますので、しばらくお待ちください。立ち読み用として、「太陽が近かったなんて」「桜の眩しさ」「ルーダと七面鳥」「オレンジ」などを小説のページに載せております。 立ち読みまででもかまいません。自分の場合は、販売価格より作成代金の方が高いのですが、文庫本の手軽さ、持ち運びやすさが好きなので、こんな形で活動を続けていました。 九州や西日本からでは遠いとは思いますが、イベントしてはひとまず5月の文学フリマ東京には参加が決定しています。一人でも何か私の文章に心を感じたのなら、広告を載せて有難いなと思います。 それでは。 |