.鴨を連れてキャンプするこの話を気に入ってはいますが、過去の著作、「寒い時の夢」「雨上がりの珊瑚」と共通する部分もため、書籍には収録せず、こちらに加筆修正し載せることにしました。
掌編「野営」
ある山のなか、ここでテントを張って長い休暇を過ごしている。別に毎日、なにひとつ変わりない暮らしだが、ある日は果実を摘んだり、別のある日には草の根をほじりかじったり、おおよそ働いている時にはできないと思えるがそれこそ自然をともにした生活を続けている。また、一緒に鴨の飛び丸を連れて来て、私は休暇を過ごしている。その長い休暇の中盤にさしかかったころ、私の心をこらしめる出来事があった。
その日は、いつもどおり木の樹冠から太陽の光が起きろ起きろというように明るく照らし、私は飛び丸の羽がさわがしくなったので目を覚ました。そして、テントに出て私は太陽の見える方向にお辞儀をした。飛び丸は変わらず羽をばたばたしていた。この日までに蓄えていた木の実や果実があったので、飛び丸とそれを分け合った。普段の都市生活より私達が食べる物の量は激減していた。特においしいものというのは少なかった。草の根は根菜よりも時にえぐみがあったり、場合によっては舌が痺れるのもあった。ただ、果実に関しては熟れているものは甘くて、そんなとき私たちはすごく嬉しく思った。世界の神秘を感じる時でもあった。食事を終わらせると私はいつも飛び丸を放し飼いにし、私はまた食べ物を探しに出かけるのであった。同時に、飛び丸が辺りに散らかした糞を集めて、採った食べ物の近くに埋めるのも日課であった。この日もそのようにしながら食べ物を探していたのだが、そこで私は一頭の鹿に出会った。 鹿は私を見つけては見つめていた。その身体はとても美しく感じた。私は鹿に見つめられるとその鹿から目を離すことができなかった。ただ、しばらくすると鹿は私を見るのを止めて茂みに戻って行ったので、私は佇んでいた。私はそこに溢れている光を感じたのだった。それは太陽の光とは違う生き物が与えてくれる光だった。つまり、私は夢を見ることなく生きていることを教えられた気がしたのだった。私はその鹿のあとを追わず辺りの食べ物を集め、時折休んで鼻歌を歌うのだった。こんな鼻歌、それは特に深い意味のない子供の遊びうたのようなものであった。
光、それが今あるものさ 私は休んで ここに本物を 過ごしに来たのさ
陳腐な内容ではあるが私は自然に歌っていて、ただこの何日、飛び丸や鹿の方に私の意識を向かわせるものに会うことはなかったので、とても私は解放されてのびのびと歌えていたのだった。そうやって思い思いのうたを歌い続け、時に木の下に座って座禅を組んでいたら日の光はだんだんと陰って暗くなっていった。私は自分の住んでいるテントに戻ろうとして集めた食べ物を抱えて持って帰った。
夜には暗くなり、テントに灯りを持ってこなかったので、飛び丸と私は完全に光が閉ざされる前に帰らなければならなかった。そこで夕飯を食べて眠るのが習慣だった。私はテントに戻るときには飛び丸はまだ戻っていなかった。「あれ」と私は少し変な感じを覚えたが、まあ遅れてくるだろうと飛び丸の帰りを待っていた。ところが、飛び丸は暗くなっても戻ってこなかったので私は困った。もう暗くなると人の退化した目ではなかなか辺りを確認することもしがたい。こういうとき頼りになるのは嗅覚、触覚や月、星の光であった。私は動くのにも体力がいるから、集めてきた食べ物の一部を食べて、残りを飛び丸の分と決めつけて捜索に出かけた。
さらに辺りが暗くなると、木々に囲まれているこの場所では、どこに自分がいるのかまるでわかりにくくなるのであった。日の光があるうちも初めは迷っていたが、明るいなら長く住み続けるにつれて道筋のコツを覚えていた。だが、今はコツにしていた目印も隠れ私は闇雲に飛び丸を探すのであった。しかし、それで見つけることは中々容易でなく、どこに行っても飛び丸らしき鳴き声は聞こえなかった。それでここにもいないと、また次の場所を探し一つ一つ当たっていくしかなかった。しかし、どこにもいなく私は疲れてしまい、また日が明るくなってから探そうと思った。ただ私のことだ、眠ることができるのかさえ定かではない、それほど私は飛び丸が近くにいないことが気がかりになっていた。だから疲れたら休み、少し調子がよくなったら、更に奥の方へ進んで行くのだった。 そして、私は水の流れが聞こえるところに行き着いた。上流から流れてくる中継の場所に私はいるようだった。なぜかその水の音がしょろしょろと聞こえると、あろうことか私はそこにうつぶせ意識を失っていた。
目を開けると飛び丸がそこにいた。しかし、彼は私を見ると向きを変え私から離れるのであった。私にはそれが信じられなかった。「飛び丸!」と私は咄嗟に名前を読んだが、彼は先を歩いていた。そして、私は彼の向こうで鹿が待っているのを見た。飛び丸は鹿に近づくと鹿は飛び丸を咥え、私のところから去っていった。「おい、やめろー」と私は叫んだのだが、鹿は私を振り向くことはなかった。
意識を戻した時、私の身体には水が纏わりついているような気がした。私はすっかり体力を回復した。時はまだ暗く、青くなっていた。あの幻想のなか、私はきっと鹿が飛び丸を連れ去ったに違いないと確信し先へ急いだ。そして心が命じるまま、水が私を走らせていき、私は木々の拓けている野原に着いた。私は発見した、飛び丸と沢山の鹿がそこにいたのだ。飛び丸は私に気づいたけどなぜかそこでじっとしていて、鹿はいなないていた。その中で角の大きい鹿がまず高い声で合図し、鹿達は飛び丸の廻りをぐるぐる廻っていた。私にはその光景は何かの儀式のように見え、飛び丸を救出することは頭に入らず、その鹿たちのやることに見とれていた。鹿達は飛び丸の廻りを廻り続けると、不思議なことに光が鹿達から輝いて見えた。飛び丸はその光が生じて怖れを感じ震えた。自分の命が危うくなっていることに飛び丸は気づいて鳴いた。私にはそれが飛び丸の助けを呼んでいる声でなく、ただ怖れのために発した悲鳴だとわかった。その時、私は飛び丸に必要とされないことに気づき、私も飛び丸を必要としていないことに気づかされた。凡ては鹿の手の内にあった。光り出した鹿は飛び丸を廻り続けて、その光が強まると、眩しくて私は目をしばらく閉じずにはいられなかった。再び目を開けた私がわかったのはそこにいるのが二頭の鹿だけであった。二頭の鹿は、私の方に向かって歩み寄り私の肩に頭を置くのだった。二頭の鹿に挟まれた私は茫然としていたのもあり、その場を動けなかったが、そこで鹿と触れ合ったことに喜びを感じずにはいられなかった。他に感じることはできず、ここで受けた喜びは今後も受けることはなかったほど計り知れないものだった。鹿は私に触れ合うと、そのまま私を通り過ぎて行った。今まで私がここで起きていたことを私は整理するのに相当時間がかかった。だから、その間夜が明るくなってくるのにつれて私の思考も徐々に冴えてきた。
私は時間が経ってから、飛び丸がもうここにはいないことに悲しんだ。ただその悲しみを悲しみとして感じることにはとても靄がかかっていた。個というものが私の尊厳への疑念となっていた。ただ今後、私が飛び丸とともに生活することはない。私は個人といえばそれに過ぎなかった。
次の日、私は一人ではいられずテントを閉まってこの場所から降りた。社会生活の時間の流れは私の心の整理には十分でなく、休暇が終わり、仕事が始まっても私はぼんやりしていて、仕事が手につかなかった。その帰りに居酒屋で酒を飲んでも、靄が取れずに私は歓楽街の騒ぎ声のなかで、一人苦悩に沈んでいた。 このような出来事を親しい者にでさえ告げることはできなく、つまり社会に関わるとそれだけ違和感を感じずにはいられなかった。以前の私はそうやって、自然と現代文明の折り合いをうまくつけていた、そんな気がしていたのに今はそれが全然かみ合わないのだった。出会う人の話す内容によって、その人やその人の取り巻く団体の何を価値に置いているのかがわかり、対して私がなにに価値を置いているのかがおぼろげにわかり、全然擦り合わないことに私は絶望を感じずにはいられなかった。
しかし、その絶望を感じた日の夜に私の夢のなかで二頭の鹿がまた登場していた。私は夢の中では鹿と触れ合わなかった。鹿は私を見つめ、私は夢の外から鹿を見つめているようだった。胸が苦しくなり私は魘され起きた時に鹿が私になにかを訴えているのでないかと思った。そして、それこそが私が人と擦り合わないものであることに今更ながら気づいた。
私は職場のなかで、そのことについて自分の考えを伝道することも、世間のなかで私の考えと同調する組織を支援することもしなかった。鹿は私に訴えているようだったが、それを解決できるのは魔法使いでしかいないと私は思った。
「魔法使いってどうやったらなれるのかな?」
ある日、私は同僚に尋ねたのだったが、彼は
「は?なれるわけないだろ。馬鹿じゃないか」と突っ返した。私は馬鹿者になれて嬉しかった。