掌編「海底」
海底までも汚れてしまった。何十年眠っている者以外は、余りの重圧に命が生きるのを諦めた。夥しいほどのイカが水面に浮かび、何層も重なっていく。魚の気配が感じられない。と、そこに翼を帯びた者が海底に現れた。ぶつぶつと愚痴を漏らしながら、彼はやってきた。
「まったく、これだからいやになる。あいつらのしていることはあいつら自身でさえ、操縦できていないのに、それを流れに任せやがる。おかげで海流の素直な流れに、劇薬まで連なってきやがる」
悪魔がぶつぶつ言っているので、海底に眠っていたウニが目を覚ました。
「あ、なんだ。なにが起こった」
「おう、やっとお目覚めかよ」
ウニはやってきた悪魔の姿に気づいた。
「あんたはなんだ。ここで何が起きた」
「一から話さなければいけないな。俺は悪魔だ、べリアルという。といっても、大昔に活躍した先祖とは違って、俺の場合は、名前だけは威厳があるが、やっていることは雑用の悪魔と変わりない。下っ端ってもんだ。この海にも汚れが蔓延した。単純なことだ」
「なぜ起きたと聞いている」
「なぜだと。誰かが汚したからだろう。では、お前はなぜ汚したと聞くだろうが、残念ながらお前の納得する答えは約束されていない。早い話、止むをえなかった」
ウニは辺りを見回し、眠る前までには泳いでいたイカたちが、揃って止まっているのに恐怖を覚えた。
「なぜ、あのイカたちは死ななくてはならない」
「それは、汚れが毒だったからに決まっているだろう」
「お前・・」
「ああ、わかったよ。いや、なぜ俺がお前の感情まで察しなければいけない、仕方ないこと・・それはな、そう識別することで、簡単に残酷なことを起こすことができるのだ」
「あ、ふざけるなよ。俺の見ている景色は戻らないのか」
「お前を慰める為に俺は来たんじゃないの、わるいね」
ウニはこの悪魔と口を聞きたくなかったが、体を動かすことができず、仕方なく悪魔の言葉が耳に聞こえてくるのだった。
「なんだ、だんまりかい・・それはいいが、俺は仕事をしなければな」
海に充満している汚れは海自体を不透明に覆ってしまう。ウニはここにいることに嫌気がした。
「おい、お前。俺を殺してくれ」
「あ、殺せだと」
「そうだ。こんな景色のなか、耐えて生きたくはない」
「お前の臨む死を俺が叶えると思っているのか、自死は大罪だ。止めるべきだ、そのあと、お前は後悔する」
「なぜ、死んだから後悔するなんて言えるのかわからないな。生きている間は退屈でしかない。俺がイカと同じように死んだとてなにも変わらないだろう」
「約束された命が結果であったとしても、それを自ずから手離すのはしてはいけないことだ。最も、そのあとの後悔を保障するなら、話は別だ。繰り返すが、命を自分のために操縦してはいけないし、誰かのためだといって後追いするのもいけない。お前は地獄の怖さすら忘れてしまっているのか」
悪魔のあとの一言に、ウニの記憶が光のように瞬いた。
「ああ、止めろ。あんな苦しみは沢山だ。現実よりも空想はひどい、卑劣だ。俺は痛められながらも生きた。だのに、地獄で俺は死なない。お前達のような長官が現れ、巨人に痛めつけられながらも、なお死ねない。何度、生の解放を願ったことか、夢に見ることに似ているな」
「お前が、まだウニになる前に、何度転生を繰り返したか、帳簿には載っているが、俺には知らされていない。お前の罪が同様に続けば、お前は痛みと呻きを繰り返すだけだ。何も知らずに浮かんで行ったあのイカたちの方が落ち着いたのかもしれない。言葉を持つ者は生き続け、悔いと改め続ける」
「そんなころもあったな、思い出してきた。そうだな、俺たちは永く生き過ぎている、短く終えることができない。そして、たとえ短い間に絶望し、この身を投げ打っても、お前達の選抜にふり落とされる。ただ、生きている状態から見えたものが嫌だという理由で、死んだ場合、皮肉なことにそれから俺達の苦しみは始まる。・・これは夢であって、本物ではないのか」
「ああ、お前はここに来た俺でさえも本物かと疑うだろう。結局、永く生き過ぎたものにはそれが夢か現か永すぎて判別できなくなるし、短く生きたものには転生をすることなく召されるから、水や土になり安定している。ただ、俺はお前の生を監視するために来た」
「随分と悪魔というのも暇なものだ、こんな海底に押し込められてしまったものには何もできやしない。監視するなんて大げさだ」
「阿呆が。それはお前が感じるだけであれ、俺達にとってはこれが仕事だ。俺たちからすれば、人間という思考の持つものが信条とする仕事、あれの方がおおげさだ」
「どうせ、この汚れも、仕事が招いたことだろう。同類がやったことだ」
「記憶を戻し、察したか。まあ、俺よりもお前の方が、絶望したのだろう」
「お前が死を問題にするなら、俺は生を問題視する。俺達は万人の平和というのを望んだが、それを万人が望んでいないことにまず絶望した。次いで、万物の平和を望んだが、どうにもそれができないことに絶望した。先祖を生んだ神のために努めようと思ったが、またそれを認めない現実に絶望した。命よりも、財産よりも俺たちには志が重宝であることを俺は償ううちに学んだが、それに同調するものはただ少ない。下手をすれば、つっかかる。『軍が勝利を仰ぐから、若者はその志のため、死地に行ったのではないか』と。それだから、志よりも命の方が大事だという。また、人垣や贈り物が必要であるから、財産の方が大事だという。志はその二つよりも更に見えづらい。だから俺は先導しづらいが、ただ何度も生きている俺はそう思っている。しかし、教えてほしい。俺の代わりに旅立ってくれたあの親友は、なにか悔んでいるのか」
「少なくとも、生きてはいない」
「そうか。それはよかった」
悪魔は咳払いした。
「お前がこれから、何をするかなど俺は期待してはいない。だが、俺はお前が死ぬまで見届けねばならない。この地獄よりはましな現実世界で天命をまっとうしろ」
「だが、俺はどうすれば俺が死ぬのかわからない。俺がやってしまった自殺というのはそれほど重荷なものなのか、何度生死を繰り返せばいいのだ」
自分の言葉にウニはふいに悲しくなった。しかし、ここで悪魔と向かい合わねばならぬことに不快感と苛立ちが募っていく。
「お前は、何度か生死を繰り返した上に、志の元に生きたというのに尚、死ねないということなのか。困ったものだ」
そう言って、悪魔はウニの目の前から姿を消した。
「べリアル、御苦労だったな」
「あのですね、どうすれば私の担当は救われるのでしょうか」
「お前の担当の罪は何だ」
「自殺です」
「そうか、お前はそいつを救いたいと思ったか」
「ええ、彼は十分に生きました。目の前の状況に悲嘆すれば、誰でも絶望します。彼の自殺も仕方のないことではなかったのですか」
「生きている間に自殺は容易い、だがそのあとが厄介だ。しかしもうお前も次の担当に回さなければいけないな、よし」
べリアルは上官と面接し許可を貰った。その喜びで、べリアルは急いで海底へ向かった。
「俺は、永く生きなければまた死を願うところだったのか。忘却とは怖い者だ。あの悪魔が来るまでは、俺は気づけなかった」
ウニは沈黙しながら、濁っていく海の底で考えていた。悪魔は姿を消す時と同じように瞬く間に姿を現した。
「さあ、お前を救ってやろう」
ウニは突然言われたのでどういうことかわからなかったが、段々と考えていくと俺も本来の姿に落ち着けるのかとウニの疑念は希望へと変わっていった。
「ああ、俺はやっと土に還れるのか、水に成ってあの親友の元へ行けるのか。長かった。といっても、今はいつだ」
「多分、お前は親友のもとへは行けない。お前は親友に会えた。親友ができた。ただ、それだけの事実がお前を親友へ向かい合わせた。当然、お前の記憶から解放され、お前も観察者となるだろう」
「お前は悪魔だろう、契約すれば、俺を彼に会わせることもできるのではないか」
「それ以上の働きを俺がするのに、お前は棒に振る気か」
「いや・・悪かった」
「記憶を呼び覚ますと、すぐ強烈な刺激に執着してしまう。だが、そういう引き寄せられてしまう人間というのは哀れだが、なんだか羨ましいな」
「悪魔、べリアルといったか。お前は俺がいなくなれば、俺を忘れるか」
「永く見てきたお前をなぜ忘れられるものか。俺も生きている限り、その記憶をひきずっていくのだ」
「生きているもの、そのへんは変わらないな」
「眠るのが惜しくなったか」
「永く生きただけ、御託が多くなっただけだ。俺には苦しみの方が、生きていた人の何倍も長く味わってきたけど、不思議と今は落ち着いているから、今は苦しくない。俺が長く生きた分だけ、人にも諭したし、家畜にも成って見てきたけど、終わってしまえば夢か。どんな生き方だって、死に際は見せどころだ。それなのに俺の長過ぎた転生は涎みたいに飽き足らなくなってしまった。もう、自分で口を止めるしかないだろう」
「なぜ、言葉を持つ者の死を見届けなければいけないのか、俺にはそれがわからない。言葉や記憶とははたして永遠や回帰へつながる方法なのか、それとも使い捨ての道具に過ぎないのか、まあいい。俺にもわからないことが多い。俺はお前と別れて残念だが、お前を救わなくてはならない。俺のためにはできない」
そう言って、べリアルはウニの身体を手で救い、念じた。すると、ウニの身体は光り出して辺りも光り、その場にいたのは悪魔だけとなった。
「べリアル、御苦労だったな」
「あの、聞いてもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「生きていくことで大事なものは志でしょうか」
「なぜ、それを上官の私に問うのだ」
「あなたしか聞けないからです」
「ふん、どこから吹き込まれたか知らんが、志が仇となり命を失い、奪うこともある」
「でも、命こそが大事ということではないでしょう」
「意味や価値というものを見出すことは立派だが、有る物こそ絶対だ。その疑念は危ないだろう」
「にしても、私はこれから迷う者をまた見続け、話を聞かなければなりません」
べリアルは上官に引きさがらなく、上官はため息を吐いた。
「では、お前の先祖の話をしようか、お前の先祖は天使から外され、その恨みに人をかどわかし、人が清い人なのか確かめたのだが、享楽にふけてしまった人たちでは滅ぼすしかなかった。そこに移住してきた者だけ逃れることができたが、ご先祖は移民の妻にまで疑念を吹き込ませた。結果、その妻は石になったという」
「はあ」
「志というものは、変わる事を拒絶するかもしれない。が、お前の先祖様が向き合った人の思想はとても愚かで脆かった。俺たちの言葉は人には危険だ。それをも守る志があるならば見てみたいものだな」
そう言って上官は出て行ってしまった。
「人の命が一度きりであることに人は気づけるのだろうか。その意味というものに。・・いや、それも相対、幻のようなものか」
べリアルの手にはウニのとげが刺さっていた。
海底までも汚れてしまった。何十年眠っている者以外は、余りの重圧に命が生きるのを諦めた。夥しいほどのイカが水面に浮かび、何層も重なっていく。魚の気配が感じられない。と、そこに翼を帯びた者が海底に現れた。ぶつぶつと愚痴を漏らしながら、彼はやってきた。
「まったく、これだからいやになる。あいつらのしていることはあいつら自身でさえ、操縦できていないのに、それを流れに任せやがる。おかげで海流の素直な流れに、劇薬まで連なってきやがる」
悪魔がぶつぶつ言っているので、海底に眠っていたウニが目を覚ました。
「あ、なんだ。なにが起こった」
「おう、やっとお目覚めかよ」
ウニはやってきた悪魔の姿に気づいた。
「あんたはなんだ。ここで何が起きた」
「一から話さなければいけないな。俺は悪魔だ、べリアルという。といっても、大昔に活躍した先祖とは違って、俺の場合は、名前だけは威厳があるが、やっていることは雑用の悪魔と変わりない。下っ端ってもんだ。この海にも汚れが蔓延した。単純なことだ」
「なぜ起きたと聞いている」
「なぜだと。誰かが汚したからだろう。では、お前はなぜ汚したと聞くだろうが、残念ながらお前の納得する答えは約束されていない。早い話、止むをえなかった」
ウニは辺りを見回し、眠る前までには泳いでいたイカたちが、揃って止まっているのに恐怖を覚えた。
「なぜ、あのイカたちは死ななくてはならない」
「それは、汚れが毒だったからに決まっているだろう」
「お前・・」
「ああ、わかったよ。いや、なぜ俺がお前の感情まで察しなければいけない、仕方ないこと・・それはな、そう識別することで、簡単に残酷なことを起こすことができるのだ」
「あ、ふざけるなよ。俺の見ている景色は戻らないのか」
「お前を慰める為に俺は来たんじゃないの、わるいね」
ウニはこの悪魔と口を聞きたくなかったが、体を動かすことができず、仕方なく悪魔の言葉が耳に聞こえてくるのだった。
「なんだ、だんまりかい・・それはいいが、俺は仕事をしなければな」
海に充満している汚れは海自体を不透明に覆ってしまう。ウニはここにいることに嫌気がした。
「おい、お前。俺を殺してくれ」
「あ、殺せだと」
「そうだ。こんな景色のなか、耐えて生きたくはない」
「お前の臨む死を俺が叶えると思っているのか、自死は大罪だ。止めるべきだ、そのあと、お前は後悔する」
「なぜ、死んだから後悔するなんて言えるのかわからないな。生きている間は退屈でしかない。俺がイカと同じように死んだとてなにも変わらないだろう」
「約束された命が結果であったとしても、それを自ずから手離すのはしてはいけないことだ。最も、そのあとの後悔を保障するなら、話は別だ。繰り返すが、命を自分のために操縦してはいけないし、誰かのためだといって後追いするのもいけない。お前は地獄の怖さすら忘れてしまっているのか」
悪魔のあとの一言に、ウニの記憶が光のように瞬いた。
「ああ、止めろ。あんな苦しみは沢山だ。現実よりも空想はひどい、卑劣だ。俺は痛められながらも生きた。だのに、地獄で俺は死なない。お前達のような長官が現れ、巨人に痛めつけられながらも、なお死ねない。何度、生の解放を願ったことか、夢に見ることに似ているな」
「お前が、まだウニになる前に、何度転生を繰り返したか、帳簿には載っているが、俺には知らされていない。お前の罪が同様に続けば、お前は痛みと呻きを繰り返すだけだ。何も知らずに浮かんで行ったあのイカたちの方が落ち着いたのかもしれない。言葉を持つ者は生き続け、悔いと改め続ける」
「そんなころもあったな、思い出してきた。そうだな、俺たちは永く生き過ぎている、短く終えることができない。そして、たとえ短い間に絶望し、この身を投げ打っても、お前達の選抜にふり落とされる。ただ、生きている状態から見えたものが嫌だという理由で、死んだ場合、皮肉なことにそれから俺達の苦しみは始まる。・・これは夢であって、本物ではないのか」
「ああ、お前はここに来た俺でさえも本物かと疑うだろう。結局、永く生き過ぎたものにはそれが夢か現か永すぎて判別できなくなるし、短く生きたものには転生をすることなく召されるから、水や土になり安定している。ただ、俺はお前の生を監視するために来た」
「随分と悪魔というのも暇なものだ、こんな海底に押し込められてしまったものには何もできやしない。監視するなんて大げさだ」
「阿呆が。それはお前が感じるだけであれ、俺達にとってはこれが仕事だ。俺たちからすれば、人間という思考の持つものが信条とする仕事、あれの方がおおげさだ」
「どうせ、この汚れも、仕事が招いたことだろう。同類がやったことだ」
「記憶を戻し、察したか。まあ、俺よりもお前の方が、絶望したのだろう」
「お前が死を問題にするなら、俺は生を問題視する。俺達は万人の平和というのを望んだが、それを万人が望んでいないことにまず絶望した。次いで、万物の平和を望んだが、どうにもそれができないことに絶望した。先祖を生んだ神のために努めようと思ったが、またそれを認めない現実に絶望した。命よりも、財産よりも俺たちには志が重宝であることを俺は償ううちに学んだが、それに同調するものはただ少ない。下手をすれば、つっかかる。『軍が勝利を仰ぐから、若者はその志のため、死地に行ったのではないか』と。それだから、志よりも命の方が大事だという。また、人垣や贈り物が必要であるから、財産の方が大事だという。志はその二つよりも更に見えづらい。だから俺は先導しづらいが、ただ何度も生きている俺はそう思っている。しかし、教えてほしい。俺の代わりに旅立ってくれたあの親友は、なにか悔んでいるのか」
「少なくとも、生きてはいない」
「そうか。それはよかった」
悪魔は咳払いした。
「お前がこれから、何をするかなど俺は期待してはいない。だが、俺はお前が死ぬまで見届けねばならない。この地獄よりはましな現実世界で天命をまっとうしろ」
「だが、俺はどうすれば俺が死ぬのかわからない。俺がやってしまった自殺というのはそれほど重荷なものなのか、何度生死を繰り返せばいいのだ」
自分の言葉にウニはふいに悲しくなった。しかし、ここで悪魔と向かい合わねばならぬことに不快感と苛立ちが募っていく。
「お前は、何度か生死を繰り返した上に、志の元に生きたというのに尚、死ねないということなのか。困ったものだ」
そう言って、悪魔はウニの目の前から姿を消した。
「べリアル、御苦労だったな」
「あのですね、どうすれば私の担当は救われるのでしょうか」
「お前の担当の罪は何だ」
「自殺です」
「そうか、お前はそいつを救いたいと思ったか」
「ええ、彼は十分に生きました。目の前の状況に悲嘆すれば、誰でも絶望します。彼の自殺も仕方のないことではなかったのですか」
「生きている間に自殺は容易い、だがそのあとが厄介だ。しかしもうお前も次の担当に回さなければいけないな、よし」
べリアルは上官と面接し許可を貰った。その喜びで、べリアルは急いで海底へ向かった。
「俺は、永く生きなければまた死を願うところだったのか。忘却とは怖い者だ。あの悪魔が来るまでは、俺は気づけなかった」
ウニは沈黙しながら、濁っていく海の底で考えていた。悪魔は姿を消す時と同じように瞬く間に姿を現した。
「さあ、お前を救ってやろう」
ウニは突然言われたのでどういうことかわからなかったが、段々と考えていくと俺も本来の姿に落ち着けるのかとウニの疑念は希望へと変わっていった。
「ああ、俺はやっと土に還れるのか、水に成ってあの親友の元へ行けるのか。長かった。といっても、今はいつだ」
「多分、お前は親友のもとへは行けない。お前は親友に会えた。親友ができた。ただ、それだけの事実がお前を親友へ向かい合わせた。当然、お前の記憶から解放され、お前も観察者となるだろう」
「お前は悪魔だろう、契約すれば、俺を彼に会わせることもできるのではないか」
「それ以上の働きを俺がするのに、お前は棒に振る気か」
「いや・・悪かった」
「記憶を呼び覚ますと、すぐ強烈な刺激に執着してしまう。だが、そういう引き寄せられてしまう人間というのは哀れだが、なんだか羨ましいな」
「悪魔、べリアルといったか。お前は俺がいなくなれば、俺を忘れるか」
「永く見てきたお前をなぜ忘れられるものか。俺も生きている限り、その記憶をひきずっていくのだ」
「生きているもの、そのへんは変わらないな」
「眠るのが惜しくなったか」
「永く生きただけ、御託が多くなっただけだ。俺には苦しみの方が、生きていた人の何倍も長く味わってきたけど、不思議と今は落ち着いているから、今は苦しくない。俺が長く生きた分だけ、人にも諭したし、家畜にも成って見てきたけど、終わってしまえば夢か。どんな生き方だって、死に際は見せどころだ。それなのに俺の長過ぎた転生は涎みたいに飽き足らなくなってしまった。もう、自分で口を止めるしかないだろう」
「なぜ、言葉を持つ者の死を見届けなければいけないのか、俺にはそれがわからない。言葉や記憶とははたして永遠や回帰へつながる方法なのか、それとも使い捨ての道具に過ぎないのか、まあいい。俺にもわからないことが多い。俺はお前と別れて残念だが、お前を救わなくてはならない。俺のためにはできない」
そう言って、べリアルはウニの身体を手で救い、念じた。すると、ウニの身体は光り出して辺りも光り、その場にいたのは悪魔だけとなった。
「べリアル、御苦労だったな」
「あの、聞いてもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「生きていくことで大事なものは志でしょうか」
「なぜ、それを上官の私に問うのだ」
「あなたしか聞けないからです」
「ふん、どこから吹き込まれたか知らんが、志が仇となり命を失い、奪うこともある」
「でも、命こそが大事ということではないでしょう」
「意味や価値というものを見出すことは立派だが、有る物こそ絶対だ。その疑念は危ないだろう」
「にしても、私はこれから迷う者をまた見続け、話を聞かなければなりません」
べリアルは上官に引きさがらなく、上官はため息を吐いた。
「では、お前の先祖の話をしようか、お前の先祖は天使から外され、その恨みに人をかどわかし、人が清い人なのか確かめたのだが、享楽にふけてしまった人たちでは滅ぼすしかなかった。そこに移住してきた者だけ逃れることができたが、ご先祖は移民の妻にまで疑念を吹き込ませた。結果、その妻は石になったという」
「はあ」
「志というものは、変わる事を拒絶するかもしれない。が、お前の先祖様が向き合った人の思想はとても愚かで脆かった。俺たちの言葉は人には危険だ。それをも守る志があるならば見てみたいものだな」
そう言って上官は出て行ってしまった。
「人の命が一度きりであることに人は気づけるのだろうか。その意味というものに。・・いや、それも相対、幻のようなものか」
べリアルの手にはウニのとげが刺さっていた。