ルーダはある出来事でなにもかもが嫌になった。そうして一人になって道を当てもなく歩いていたが、道路脇の家の外に取り付けてある階段の陰になにやら黒いものが動いているのに気づいた。気になったルーダは暫く道に立ち止まっていたので、ようやく黒い生き物がルーダの前に姿を顕にすると、それは七面鳥だった。
「おまえ、ここでなにしてんだ」
と思い、 彼が踏み出すと七面鳥はまた陰に後退りして隠れた。彼が歩み寄り、七面鳥をよく見てみると、それは彼に警戒しているというよりは、辺りの人々の声に対しても、じっと隠れているようだった。彼はその様を見て、なぜ七面鳥が隠れているのかそのわけを思いついた。
「ああ、おまえは捕まって、ごちそうになるのを恐れているんだな」
生き物というのは、なにも結末を恐れるがゆえに逃げたり隠れるのではない。末期が何であるかは問題なく、ただ外部からやってくるものに捕まることには、既に条件反射のようにからだに染み付いているのだ。
ルーダは屈んで話しかけた、それは自分に言い聞かせるようでもあった。
「でも、おまえはいいよ。もうすぐおまえでなくなるのだから。ぼくはまだまだ何かに捕まれはしないのだから」
そうして彼が七面鳥に両手を差し伸べて捕まえようとするとやはり七面鳥は彼の手を避け、また別の影に向かって歩くのだった。
「ああ、こいつはこんなにも危険に対して必死に自己を保とうとしている、その延長になにがあるかというのはこの生き物と関連がないのだ」
多くのコミュニティを作る生き物には序列と権力がある。恩義は互いの結び付きを固くするのに有効である。さて、その自然のなりゆきができようとも、義に応えられないものはどうしたらよいだろうか。こうあれるならきっと喜んでくれるだろうという見通しがある。しかし、必死になろうと成り行きが重心の偏った賽を振る時の結果で流れていくのであるなら、その落胆も大きい。社会的生き物のいったい何がこの間柄を払いとり、正に陽の光をただ光合成のために直立するような植物のように生きることができようか。それは極めて許しに溢れたところでしか実現しない。内心の思いを誰が嗅ぎとれないと言い切れよう、そこまで鈍感な環境に慣れぬのだ。
彼は七面鳥を追うのを止めた、彼の悩みは七面鳥にはわかることない。