掌編「ラベンダー」
私はどうやってここに来たのかわからない。日頃の疲れや人の関わりから逃れたくて遠くへ旅したのかもしれない。虚ろな思いにつれられるままに知らずのうちにこの花畑に来ていた。平野は広い。タクシーかバスあるいはレンタカーでも借りなければ、到底来られなかっただろう。当たり一面ラベンダーの色が淡く、その光景に圧倒される。朝早いためかまだ人は出てこない。それが空と畑、ラベンダーが私の些事を洗い清めてくれるようで、私はこの持続に見切りをつけることできず、畑の周りを歩き、徐々になんでもない自分であることが楽しくなってくることを感じた。
歩き回ると、畑のなかをうろついている男の人がいた。私が視線を向けると、彼は待ちわびていたかのように私に駆け寄ってきた。走っても植物を傷つけぬよう心掛けて。
「すみません、一つお聞きしたいのですが」
「はあ、なんでしょうか」
「この人を見かけませんでしたでしょうか」
そう言って彼は顔写真の載せている紙を取り出して、私に見せた。写真は、丁度彼と年頃の変わらない若い男性の顔が載っていた。その顔は彼の顔には似ていなかった。
「いえ、見かけません」
「そうですか」
「この辺にいるのですか」
「そうだとは思うのですが」
「ご友人ですか」
「そのようなものです」
「途中ではぐれたのですか」
「いえ、しばらく前から行方がわからなくなって探しているのです」
「警察には連絡したのですか」
「いえ、警察では探せませんので」
「はあ」
「彼は、現象的な世界に愛想がつきたと最近呟いておりました。突然いなくなってしまったので、もうこの世界にはいなくなったのではないかという予感を抱きました」
「ここに来たのは」
「私は彼とよくここに来ていたのだと覚えています。たとえ、彼がいなくなったとしても、私は彼がこのラベンダーの中に生まれてくるかもしれない、そんな期待を抱きました。だから、私は彼に会いに来たのです」
「そうですか。・・しかし、失礼ですが」 と私は続けた。
「それはあなたの身勝手な思いではございませんか。彼の生を望んでいるのは、繋ぎ止めようとしているのはあなたであって、彼自身は転生など望んでいないのでしょう」
「そうかもしれません。私が彼を諦めきれないのです。・・教えてくれませんか、私はどうしたらよいのかを」
「私に聞かれましても、私にはわかりませんよ。あなたのしたいようにすればいいでしょう」
「ですから、私はここに探しに来たのではありませんか」
「しかし、彼はいないのでしょう」
「だから、どうすればいいのでしょう」
「諦めるにはどうすればということですか、ただ一つ言えることは、そうですね」
しかし、私は黙ってしまった。
「なにを黙っているのです。貴方は何かを言わねばなりませんよ」
「私は偶然にここに来たまでです。なぜ、発言せねばならないのでしょう」
「人はその人の意思とは無関係に審問に立たされるのです。たとえ、自分の選択や意見が誰かをあらぬ方向へ導くとしても、その責任もふまえ、人は答えることが要求されるのです」
「貴方は亡くなった彼にも同じように問いただしていたのでしょうか」
「だとしたら何かつかめますか」
「成程。それならば逃げたくなる」
私は続けた。
「諦めるのなら、他の人と新しい関係を築くしかないのではありませんか、それ以上に貴方みたいな人も沢山いるのだと見渡すことも重要なことです」
「いえ、私の問題など些細なことです、しかし私、固有の問題なだけ蔑ろにできません」
「それはあなた固有の問題ではありません。普遍的なことです」
「それこそ偏った見方いえ何かの側に寄っています。私は球体のなかの一部に過ぎません」
「混沌のなかから見渡せということでしょうか、しかし個人もまた果てしない」
「ですから、その個人を失うことは果てしのないものを失くしたことも同然、どうして簡単に諦められることでしょう」
「というよりも要は誰でもいいのでしょう。関係性所以の問題で、どの個人もさして測り知れなさは変わりない、各々の気づきの度合いは違いますが」
「あなたが彼だということでしょうか」
「大まかに見ればそうなります。しかし、彼の名前など知りませんが」
「私たちの溺愛する対象というのは人そのものではないのですね」
「あくまでも環境によって育まれた意識、何れは去ってしまうものでしょう。もし、転生するといってもそれはあなたの知る彼ではないでしょう。だとしてもあなたは彼を慕えますか」
「それはなってみないとわかりません。一度引き返してみます。でも、これほど早い時間に貴方もどうしてこの花畑にいたのでしょう」
窓から光が差し込み、意識を呼び起こした。
「この花、とてもいいね」
彼の声が聞こえた。キャンバスに絵を描いていた途中で眠ってしまったようだ。アトリエで彼と描きながら話していたものの、私は夢を見ていたらしい。しかし、短時間な割には長く感じる夢だった。そんな瞬間的なまどろみで物語の夢が見れるだろうか。
「俺はだいぶ眠っていたのか」
「あ、寝ていたね。でもこっちも集中していたから、どのくらいかはわからないな」
彼は絵を鉛筆で下書きしたので、その描かれた用紙をまるめて、後ろの棚に置いた。
「じゃあ、僕は行くよ。バイト入っているし」
「おまえ・・」
「愛想が尽きたと言っていたよな。それは俺が繋ぎ止めても駄目なものなのか」
私の言葉に彼はしばらく黙っていた。
「人間は・・」と彼は途切れながら話し出した。
「人間は共感性を持ってから常に引き裂かれた自分を持たないとならないのかもしれない、誰かの愛に応えようとしたり、誰かを愛そうとする自分ともうひとつは誰かが死ぬのなら自分も一緒に死のうという自分、考えることは余計に苦しくさせる。だから人は忘れようとして、一度きりの人生を生きることも忘れる」
「覚悟を持つ生をというのなら、どのようなことがあっても君は去らないだろう」
「どうかな。覚悟を一貫できる人などどれくらいいるのだろう、死に値しない失望などあるのだろうか」
「少なくとも君は自ら弱点を曝け出した。俺はおまえの覚悟を監視しないとならないのかもな」
「それが君の責任ってこと・・うん、全くこの姿は夢のようだよ」
そう言って、彼はドアを開けてバイトに向かった。
私はどうやってここに来たのかわからない。日頃の疲れや人の関わりから逃れたくて遠くへ旅したのかもしれない。虚ろな思いにつれられるままに知らずのうちにこの花畑に来ていた。平野は広い。タクシーかバスあるいはレンタカーでも借りなければ、到底来られなかっただろう。当たり一面ラベンダーの色が淡く、その光景に圧倒される。朝早いためかまだ人は出てこない。それが空と畑、ラベンダーが私の些事を洗い清めてくれるようで、私はこの持続に見切りをつけることできず、畑の周りを歩き、徐々になんでもない自分であることが楽しくなってくることを感じた。
歩き回ると、畑のなかをうろついている男の人がいた。私が視線を向けると、彼は待ちわびていたかのように私に駆け寄ってきた。走っても植物を傷つけぬよう心掛けて。
「すみません、一つお聞きしたいのですが」
「はあ、なんでしょうか」
「この人を見かけませんでしたでしょうか」
そう言って彼は顔写真の載せている紙を取り出して、私に見せた。写真は、丁度彼と年頃の変わらない若い男性の顔が載っていた。その顔は彼の顔には似ていなかった。
「いえ、見かけません」
「そうですか」
「この辺にいるのですか」
「そうだとは思うのですが」
「ご友人ですか」
「そのようなものです」
「途中ではぐれたのですか」
「いえ、しばらく前から行方がわからなくなって探しているのです」
「警察には連絡したのですか」
「いえ、警察では探せませんので」
「はあ」
「彼は、現象的な世界に愛想がつきたと最近呟いておりました。突然いなくなってしまったので、もうこの世界にはいなくなったのではないかという予感を抱きました」
「ここに来たのは」
「私は彼とよくここに来ていたのだと覚えています。たとえ、彼がいなくなったとしても、私は彼がこのラベンダーの中に生まれてくるかもしれない、そんな期待を抱きました。だから、私は彼に会いに来たのです」
「そうですか。・・しかし、失礼ですが」 と私は続けた。
「それはあなたの身勝手な思いではございませんか。彼の生を望んでいるのは、繋ぎ止めようとしているのはあなたであって、彼自身は転生など望んでいないのでしょう」
「そうかもしれません。私が彼を諦めきれないのです。・・教えてくれませんか、私はどうしたらよいのかを」
「私に聞かれましても、私にはわかりませんよ。あなたのしたいようにすればいいでしょう」
「ですから、私はここに探しに来たのではありませんか」
「しかし、彼はいないのでしょう」
「だから、どうすればいいのでしょう」
「諦めるにはどうすればということですか、ただ一つ言えることは、そうですね」
しかし、私は黙ってしまった。
「なにを黙っているのです。貴方は何かを言わねばなりませんよ」
「私は偶然にここに来たまでです。なぜ、発言せねばならないのでしょう」
「人はその人の意思とは無関係に審問に立たされるのです。たとえ、自分の選択や意見が誰かをあらぬ方向へ導くとしても、その責任もふまえ、人は答えることが要求されるのです」
「貴方は亡くなった彼にも同じように問いただしていたのでしょうか」
「だとしたら何かつかめますか」
「成程。それならば逃げたくなる」
私は続けた。
「諦めるのなら、他の人と新しい関係を築くしかないのではありませんか、それ以上に貴方みたいな人も沢山いるのだと見渡すことも重要なことです」
「いえ、私の問題など些細なことです、しかし私、固有の問題なだけ蔑ろにできません」
「それはあなた固有の問題ではありません。普遍的なことです」
「それこそ偏った見方いえ何かの側に寄っています。私は球体のなかの一部に過ぎません」
「混沌のなかから見渡せということでしょうか、しかし個人もまた果てしない」
「ですから、その個人を失うことは果てしのないものを失くしたことも同然、どうして簡単に諦められることでしょう」
「というよりも要は誰でもいいのでしょう。関係性所以の問題で、どの個人もさして測り知れなさは変わりない、各々の気づきの度合いは違いますが」
「あなたが彼だということでしょうか」
「大まかに見ればそうなります。しかし、彼の名前など知りませんが」
「私たちの溺愛する対象というのは人そのものではないのですね」
「あくまでも環境によって育まれた意識、何れは去ってしまうものでしょう。もし、転生するといってもそれはあなたの知る彼ではないでしょう。だとしてもあなたは彼を慕えますか」
「それはなってみないとわかりません。一度引き返してみます。でも、これほど早い時間に貴方もどうしてこの花畑にいたのでしょう」
窓から光が差し込み、意識を呼び起こした。
「この花、とてもいいね」
彼の声が聞こえた。キャンバスに絵を描いていた途中で眠ってしまったようだ。アトリエで彼と描きながら話していたものの、私は夢を見ていたらしい。しかし、短時間な割には長く感じる夢だった。そんな瞬間的なまどろみで物語の夢が見れるだろうか。
「俺はだいぶ眠っていたのか」
「あ、寝ていたね。でもこっちも集中していたから、どのくらいかはわからないな」
彼は絵を鉛筆で下書きしたので、その描かれた用紙をまるめて、後ろの棚に置いた。
「じゃあ、僕は行くよ。バイト入っているし」
「おまえ・・」
「愛想が尽きたと言っていたよな。それは俺が繋ぎ止めても駄目なものなのか」
私の言葉に彼はしばらく黙っていた。
「人間は・・」と彼は途切れながら話し出した。
「人間は共感性を持ってから常に引き裂かれた自分を持たないとならないのかもしれない、誰かの愛に応えようとしたり、誰かを愛そうとする自分ともうひとつは誰かが死ぬのなら自分も一緒に死のうという自分、考えることは余計に苦しくさせる。だから人は忘れようとして、一度きりの人生を生きることも忘れる」
「覚悟を持つ生をというのなら、どのようなことがあっても君は去らないだろう」
「どうかな。覚悟を一貫できる人などどれくらいいるのだろう、死に値しない失望などあるのだろうか」
「少なくとも君は自ら弱点を曝け出した。俺はおまえの覚悟を監視しないとならないのかもな」
「それが君の責任ってこと・・うん、全くこの姿は夢のようだよ」
そう言って、彼はドアを開けてバイトに向かった。