通りでは、居酒屋を出たばかりの会社員達が集まって話している。向こうでは学生が数人群がって騒いでいる。そんな人々の中をすり抜けて男は家に帰る途中だった。思えば、男もあのような時間を過ごしたものだ。全く同じではないが、今生きている時間をずらすことなく味わっていたのだと感じると、男は自分が既にその感覚を失っていることに気づいた。しかし、その予兆は既に前から起こっていたのだ。今、男が集団の会話に耳を立てることができなくなったわけでなく、だいぶ前からこのような場所への居心地の悪さを感じていたのだ。
その夜、男は眠りにつくと夢を見た。その夢のなかで男の前に狐が現れた。狐は男を見つめていたあと、ふっと跳躍して空を駆けて雲の中に隠れてしまった。男はその雲をずっと見ていたが、一向に狐は降りてこなかった。そんな夢を見た。
朝になると、男はいつもの支度をして通勤する。昨日見た夢がなんだったのか気がかりではあったが、考えごとばかりすることはできず、渋々男は働いた。この日の昼食、気晴らしに出かけた蕎麦屋のつゆの量が少なくて男は落胆した。忙しなく時間は過ぎて行った。しかし、男が時間を早送りし三日後の出来事に先回りすることはできない。絶えざる時間の流れこそが受け持っているすべてなのだ。そう思うと、男は昔のように今を楽しむことは少なくなったが、今を受け止めることは多くなったことを感じて、均衡は取れているのだと思った。望んで楽しみを受けるよりは苦しみを受けることを望むようになった。男は世界中の重荷を受けている人達と同等の立場になれたような気がして嬉しくなった。 その夜、男は昨日の夢の続きを見た。ただ、狐はすでに雲の中に隠れていたので、男は思った。
「おい、いつになったら降りてくるのだ」
しかし、雲から狐はいっこうに現れず、ずっと雲を見ていたくらいで男は目を覚ました。それからしばらく男はただ雲を見ている夢を何日も見ることになった。 狐が雲から降りてきたのは、一週間後の夜の夢だった。いつもどおり男が雲を見上げていると、雲の前方からひょっと狐の顔がとび出て、男は困惑した。なぜ、今になって出てきたのだろうと思ったが、すぐに体も見えて、空を駆けおりて、狐は男のいる地上に降りた。
「なにをしていたのだ、お前はずっと」
男の言いたいことは狐に伝わったのだろうか、狐は男の傍を通りそのまま過ぎて行った。
「おい」 と男は呼び止めたが、狐は駆けだして行ったので、男も走って追いかけた。しかし、その差が縮まることはなかったので、やがて男は追うのを諦めた。きつねが見えなくなって辺りを見渡すとあの隠れ場所となっていた雲が浮かんでいるだけだった。なんと退屈なことだろうと男は思った。 この夢のあとに続きの夢を見ることはもうなかった。起きてからも男は狐のことを考えていたが、考えてもきつねが雲に行ったことも、留まったことも、降りてきたことも一切これといった理由を思いつくことができなかった。理由はないが必然的に、段階は過ぎて行った。男と同じようにきつねも何かに向かったがゆえに、その続きを受けなければならなかったのではないかと男は思った。そもそもの動機はまったくわからなかったが、そのあとの動機は前からやって来るのではないだろうか。 もう狐の夢を見ることはなくなり、男は狐のいなくなった日々を過ごしている。しかし、これは男の中の狐の死かもしれない。それは狐が実際に命を受けてどこかで暮らしていることとは関係がなく、男の感じている世界のなかの狐が消失したこと、それは死を意味する。死する者がなんであれ、男は生きている者のなかで自ずと死に陥ることなく、生を務めている。だが、消失したものを思い起そうとすることは生きている者の行為であるように男もまた狐の走って行った後姿を時々、思い出した。
その朝、通勤の電車でつり革に掴まる男は自分の肩が重くなっているのを感じた。休養が十分でないのか、緊張で体がこわばってしまうためかと思った。だからといって、すぐに整体やマッサージを受けてみるほどの余裕は精神的に持ち合わせていないので、屋外に出ると時々、男は腕を振り回した。視線が否応なく上に向くと、厚い雲が浮かんでいた。この雲は最近、報道で知った偶発的に起きた犠牲者の霊魂が混じっているのではないかと、男は思ったが、そんなことはあるまいとさっきより大きく腕をふり回して、からだは余計に重くなった。
その夜、男は眠りにつくと夢を見た。その夢のなかで男の前に狐が現れた。狐は男を見つめていたあと、ふっと跳躍して空を駆けて雲の中に隠れてしまった。男はその雲をずっと見ていたが、一向に狐は降りてこなかった。そんな夢を見た。
朝になると、男はいつもの支度をして通勤する。昨日見た夢がなんだったのか気がかりではあったが、考えごとばかりすることはできず、渋々男は働いた。この日の昼食、気晴らしに出かけた蕎麦屋のつゆの量が少なくて男は落胆した。忙しなく時間は過ぎて行った。しかし、男が時間を早送りし三日後の出来事に先回りすることはできない。絶えざる時間の流れこそが受け持っているすべてなのだ。そう思うと、男は昔のように今を楽しむことは少なくなったが、今を受け止めることは多くなったことを感じて、均衡は取れているのだと思った。望んで楽しみを受けるよりは苦しみを受けることを望むようになった。男は世界中の重荷を受けている人達と同等の立場になれたような気がして嬉しくなった。 その夜、男は昨日の夢の続きを見た。ただ、狐はすでに雲の中に隠れていたので、男は思った。
「おい、いつになったら降りてくるのだ」
しかし、雲から狐はいっこうに現れず、ずっと雲を見ていたくらいで男は目を覚ました。それからしばらく男はただ雲を見ている夢を何日も見ることになった。 狐が雲から降りてきたのは、一週間後の夜の夢だった。いつもどおり男が雲を見上げていると、雲の前方からひょっと狐の顔がとび出て、男は困惑した。なぜ、今になって出てきたのだろうと思ったが、すぐに体も見えて、空を駆けおりて、狐は男のいる地上に降りた。
「なにをしていたのだ、お前はずっと」
男の言いたいことは狐に伝わったのだろうか、狐は男の傍を通りそのまま過ぎて行った。
「おい」 と男は呼び止めたが、狐は駆けだして行ったので、男も走って追いかけた。しかし、その差が縮まることはなかったので、やがて男は追うのを諦めた。きつねが見えなくなって辺りを見渡すとあの隠れ場所となっていた雲が浮かんでいるだけだった。なんと退屈なことだろうと男は思った。 この夢のあとに続きの夢を見ることはもうなかった。起きてからも男は狐のことを考えていたが、考えてもきつねが雲に行ったことも、留まったことも、降りてきたことも一切これといった理由を思いつくことができなかった。理由はないが必然的に、段階は過ぎて行った。男と同じようにきつねも何かに向かったがゆえに、その続きを受けなければならなかったのではないかと男は思った。そもそもの動機はまったくわからなかったが、そのあとの動機は前からやって来るのではないだろうか。 もう狐の夢を見ることはなくなり、男は狐のいなくなった日々を過ごしている。しかし、これは男の中の狐の死かもしれない。それは狐が実際に命を受けてどこかで暮らしていることとは関係がなく、男の感じている世界のなかの狐が消失したこと、それは死を意味する。死する者がなんであれ、男は生きている者のなかで自ずと死に陥ることなく、生を務めている。だが、消失したものを思い起そうとすることは生きている者の行為であるように男もまた狐の走って行った後姿を時々、思い出した。
その朝、通勤の電車でつり革に掴まる男は自分の肩が重くなっているのを感じた。休養が十分でないのか、緊張で体がこわばってしまうためかと思った。だからといって、すぐに整体やマッサージを受けてみるほどの余裕は精神的に持ち合わせていないので、屋外に出ると時々、男は腕を振り回した。視線が否応なく上に向くと、厚い雲が浮かんでいた。この雲は最近、報道で知った偶発的に起きた犠牲者の霊魂が混じっているのではないかと、男は思ったが、そんなことはあるまいとさっきより大きく腕をふり回して、からだは余計に重くなった。